移動の自由

人権としての「移動の自由」

「バイクは移動の自由の象徴」という趣旨で熱く語られた記事は多数ある。
そもそも「移動の自由」とは何か。

実は憲法に「移動の自由」という言葉はないらしい。
一番近いのが、憲法第22条の「居住移転の自由、職業選択の自由、外国への移住、国籍離脱の自由」らしいのだが、全然しっくりこない。誰にもジャマされず気の向くまま行きたいだけなのに、引っ越し・就職・国籍って、そんな大義名分(理由)がないとダメなのか。

移動権(交通権)という概念もあるようだが、移動について不利な人だって移動したいとか、移動を便利にしたいといった意味合い。それはそれで尊重されるべきだが、バイクに乗るときに感じる「移動の自由」ではない。

むしろ第18条「奴隷的拘束、苦役からの自由」に第13条の「幸福追求権」を掛け合わせたものが「移動の自由」だと感じる。
江戸時代の農民とか封建時代のヨーロッパに農奴が存在した。tachigoke的「移動の自由」はまさに「奴隷的拘束、苦役」の対極というイメージだ。生まれた村で一生を終えるなんて今では考えられない。今では考えられないが、かつては当たり前だった。今では考えられないと思えるのは、すでに人権になっているからだ。

物理的/精神的な身体拘束(見えるオリ/見えないオリ)の対極にあるのが「移動の自由」だ、と言ってみるのも分かりやすい。
映画の名作『大脱走』や『ローマの休日』にそうしたモチーフがある。

封建時代のヨーロッパでは農奴が都市に逃げ込んで1年と1日を無事に過ごすと、自由な身分になれた。それは「都市の空気は自由にする(Stadtluft macht frei)」と呼ばれた。バイクも、あちこち自由に移動できる、というだけでなく、後述するように自由な気分にさせる力を持っていると思う。中でも125ccは手が届きやすい。

それでサイトのタイトルを「125の風は自由にする」とした。

コロナによる外出制限

そんな「移動の自由」が昨今のコロナで危機に瀕した。
「行動制限」、「ロックダウン」、「自粛」といった言葉が飛び交った。
福島原発の屋内退避を除き、事実上の外出制限を戦後日本は初めて経験した(と思います)。

欧米のように非常事態での人権制限が合意されている社会は、迅速なロックダウンを割り切れた。
だが日本の取り締まりは自粛警察。
自由にうろつくと危ない。
半世紀前の映画『イージーライダー』を彷彿とさせる。
ロンゲであるというだけで、射殺されて幕切れとなる不条理さ。

「移動の自由」を制約されると、いかにつまらないか。
バイクで三密なんてあり得ない。
コロナのリスクよりナンバープレートに白い目を向ける人間の方が怖い。
この経験から、人権としての「移動の自由」を自覚した人も少なくないはずだ。

コロナ真っ只中の2021年に「第三次バイクブーム」が到来しているらしい。
迷惑かけないからジャマしないでくれ、という心の叫びだ。

「移動の自由」の渇望にほかならない。

元祖AR 「人馬一体」

ところで「○○の自由」というと、最低限の権利は保障すべき、という感じがする。
ところが「バイクは移動の自由の象徴」と言った途端、最低限ではなく、楽しい印象を与えているのはなぜだろう。
それはバイク自体のユニークな特徴によると思う。

バイクは体をむき出しにして乗るから、歩く、走る、自転車に乗るといった身体感覚の延長にある。自転車の経験が橋渡しとなって自動車にはない「身体による制御」を無意識に身につける。「身体による制御」とは要するに、訓練により脳がバイクのレスポンスまで計算に入れて体に指示できるようになる、ということだ。バイクのクセまで熟知して条件反射のように運転できる。まさに「人馬一体」だ。

ところが、実際に自分の足を動かして走行する自転車とのパワーのギャップが凄まじい。
自転車で暴走して死ぬことは難しいが(死なせることは増えているようだが)、バイクは死なないように乗ることが9割5分と言っても言い過ぎではない。

かといって死なないようにハンドルにかじりついている訳ではない。
むしろアクセル一つで身体能力を超える移動の感覚を、歩く・走る・自転車の延長線上で獲得することを楽しめる。味覚を除く五感と平衡感覚を駆使して、自分をパワーアップできるのがバイクだ。
「人馬一体」。これは元祖・拡張現実(AR)と言って良いだろう。しかもスマホの中のバーチャルなARではなく、サイボーグのようなフィジカルなARだ。

歩く目の高さで、歩行の数十倍のスピードで移動できる。
しかも体重移動と風圧の感覚があるのに、疲れない。

こうしたバイクの特徴が、「バイクは移動の自由の象徴」というテーマに楽しさを与えている

自動運転なんて余計なお世話だ

そうした走ることの楽しさを奪うのが自動運転だ。

ちょっと話は四輪車にそれるが、目指されている自動車の自動運転が安全性や効率性の面で優れていることは明らかだ。その技術変革の主導権争いに巨大企業がしのぎを削っているのだから間違いない。

だがMT車からAT車へ、挙句に自動運転となれば、ドライバーのやることはどんどんなくなっていく。「ドライビング」は死語になる。
それどころか、居眠りセンサーで運転の強制終了とか、アルコール検知器の誤検知(?)で始動不能といった初期段階に始まり、県外車はAIが設定したルートしか走行できない、走行ルートの履歴を取られる、要注意人物は5Gでブラックリストを照会され始動できない、といった「移動の自由」侵害がプログラム一つで可能になる。

四輪車はそうした未来図に向かって行くだろう。ではバイクはどうだろう。
排ガス規制が厳しくてメーカーが開発を諦める業界だから、幸か不幸か、自動運転なんて絶対に来ない。
歩道と車道を傍若無人に行き来する自転車が野放しであるように、「人間が勝手に運転するバイク」もニッチに生き残るだろう。

自動運転による「人間征服」を受けない最後の聖域となって欲しい。

※自動運転ほどの技術革新できるなら、転ばないバイクを作って欲しい。
加速度センサーで危険な傾きを検知したら瞬時に補助アームを出すなんて造作もないだろう。